〈山梨県・山中の寺(番外編)〉
私が「空」と出会ったのは山梨のお寺のお世話になっていた時で、「空」はお寺と麓の村とのほぼ中間に居を構えていたH氏に飼われていた犬だった。
H氏は書道家で、教師を退いた後、良寛さんの五合庵になぞらえて家を建て移り住んできたのだそうで、そこに地元の人から譲り受けてきたのが甲斐犬の「空」だった。
甲斐犬は黒と茶色の毛並みで、まるでオオカミのような風貌をしているために顔の表情を見分けにくかったが、「空」はとても賢い犬であることがその面構えから想像できた。
「空」はもらわれてきた当初、H氏から「色即是空」と命名されたのだそうだが、呼ぶには少し長いので、いつの間にか「空」だけになってしまったのだという。
私は、麓の村外れで小さな食堂を営んでいたSさんとのご縁から書道家のH氏宅に連れられていった折、「空」と出会って目と目が合い、意気投合したようなわけで、すぐに仲良しになった。
しばらくすると、山の中で半分放し飼いにされていた「空」は、私が用事で麓の村にあるスーパーなどに出かけた折に出会うと、そのまま山奥のお寺までついてくるようになった。
「空」は、私の後からついてきたり、時には追い越して道から外れ、適当に道草を食ってからヒョイと私の前に飛び出してきたりして、遊んでいた。
また私は、お寺に隣接する小高い山に登り、その頂上の岩の上に寝転んで雲を眺めて過ごしたりすることがあったが、そんな時にも「空」がついてきて、一緒に山登りを楽しんだこともあった。
そして、そうこうするうちにお寺の石垣の一角が「空」の定位置となって、朝方、気がつくと「空」がそこに丸くなっていたりした。
また「空」はその定位置で、まるで人が坐禅をしているような姿でちょこんと坐っていたりもした。
賢い「空」には当時の寂しい私のことが分かっていて、それを何気なく慰めてくれていたような、そんな感じが今でも私の記憶の中に鮮明に残っている。