樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

悔しさの力

きっとこれは私の性格から来るものだろうと思うのですが、悔しさをバネに体を突き動かす癖のようなものがあります。

私にとって「悔しさ」はとても大きな力を生み出す源で、もう十年ほども前のことになりますが住職になって間もない頃、ある人から「妙性寺はお化け屋敷だからな…」と言われた言葉にカチンと来て、それから二年近くの間、お寺の本堂にある柱という柱、一本残らず磨き上げることが出来ました。

当初は非常にショックな悔しさで、とにかく見返してやろうという気持ちでいっぱいでしたが、時間がたくさん過ぎて冷静に振り返れるようになってみると、あの言葉は本当に有り難かったと思います。悔しい思いは、柱を磨く中ですっかり成佛出来たのではないかと思われるのです。

この「悔しさ」の癖は今でも私の中で元気にしていて、つい最近にも同じようなことがあったのですが、それがいいバネになって、あまり面白くない仕事を非常にスピーディーにしてしまうことが出来ました。

しかし、私という人間はなかなか難しい生き物だとつくづく思うのですが、悔しい思いがなかなか成佛出来ない事柄もありまして、これはまだこの先何年もかかる懸案事項だなあと思うことも正直あります。

本来ならば私の中にもっと望ましい力の源泉があって、それらの懸案事項を次から次へと成佛させてくれればいいのですが、やはりまだまだ修行の力が足りないということでしょうか。

悔しさの力