樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

今と来年の今

棚経(たなぎょう)が始まりました。

棚経は、毎年お盆の時期に、各檀家さんのお宅に伺ってお佛壇の前で唱えるお経です。

丸々一年経って再び同じ場所に坐ってお経を唱えるわけですが、お経が済んでお宅の方とあいさつをしていると、まるでつい昨日か一昨日くらいに来たばかりのように感じることがあります。本当に一年経ったのかと思えるような不思議な感じです。

また、お経をあげている時に、これで今年の棚経が終わるのと同時に、既に来年の棚経を迎える始まりになるのだな、などと思うことがあります。つまり、終わりと同時に始まりを感じる。

これはまるで、スポーツ選手が一つの試合を終え、それと同時に来年の試合の準備にすぐに入っていく感覚に似ているような気がしていました。

このような感覚は、不思議と毎年同じお宅で起こるようなのですが、今日の場合は突然今までとは違う、切迫した感覚が起こりました。

それは、今唱えているお経の文言その一句を発した瞬間そのものが、来年もまた同じ文言を読む始まりになっている…というように、お経のお唱えがすべて終わってから来年のことに思いを巡らすのではなく、一字一句の瞬間、瞬間に終わりと始まりが繰り返されていくように感じたのです。

そして、その感覚はさらに進んで、一つの音を発声した瞬間の中に「今と来年の今」とがピタリと合わさってしまった。つまり、もはや「来年の今」は次に来るべきものではなく、「今」という瞬間の中に「来年の今」が時間を超えてピタリと合致してしまったのです。

…そもそも、これまで同じように年が巡ってきたからといって来年もまた同じ時が巡ってくるという確証はないわけで、頭の中では分かっていながらも、何となくまた同じ時が巡ってくるように漠然と思いがちなところに、はっきりと「今」しかないことを実践の中で感じ取れたように思われたのです。

今と来年の今