私たち僧侶は、ある大切な人の「死」という、身近な人にとっては大変悲しい出来事を最初のご縁として、その家の方々とお付き合いが始まるという、少し悲しい一面があります。
そして、そうした悲しみの輪の中にそっと入っていって、それらの方々の悲しみにどれだけ寄り添うことができるか、そして同時に、大切な人の「死」というものをきちんと正面から受け止めていくということが要求される、そういう立場にあるのだと思います。
曹洞宗の宗祖・道元禅師様は、その著述『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の中で、「生死(しょうじ)の中に佛あれば生死(しょうじ)なし」と説かれています。
私は、道元禅師様を初めとして歴代のお祖師様方のような透徹した境地に至っているわけではありませんが、「人の生き、死に」というものは一つの同じ水平線上にあるようなイメージを持っています。
人として生まれてきて死んでいく…しかしそれは、宇宙的な視野に立って見れば大きな生命の流れの中の小さな光の明滅のようなもので、生命の大きな流れは依然としてとうとうと流れ続けている…。
盛永宗興師(臨済宗)の書かれた『お前は誰か』という本の中に、発生生物学者の岡田節人博士のお話が引用されていますが、博士は、「実証はされておりませんけれども、〈いのち〉というものはただ一つ、一回しか生まれたことがないという認識は、今日、発生学のほうでは常識になってきております」とおっしゃっています。
…ただ一度生まれた一つの生命が、さまざまな姿をとってこの世界に存在し、そして存在し続ける…私たち人間もその一つである、という見方であります。
そうした立場から見れば、私たちは「死にたくても死ねない」とも言える側面を持っている。
私たちは大宇宙の、大自然のそうした有りように身を委ねることが出来れば、自らの死も、また大切な人の死も従容として受け入れることができるのではないか。
出来ることならば、私も従容として死んでいけたらと願っています。