樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

テレビ、そしてスマホ

小学生の頃の私は、学校が終わって家に帰っても、母親が勤めていたために、一人で鍵を開けて家に入るとすぐにテレビのスイッチを入れるような、いわゆる「テレビっ子」でしたので、随分とテレビのお世話になったと思います。

それから数十年間、やはり「テレビっ子」のような生活をしていましたが、このところテレビを見ない日がだんだんと多くなるにつれ、意識的にテレビをつけずに静かな空間で時を過ごすことができるようになってくると、今度はテレビの必要性に疑問を感じるようになってきました。

そもそも五十数年前にはテレビは普及しておらず私たちはテレビのない生活をしていたわけで、その頃の私たちが不幸で、テレビが登場した後の私たちは幸福になったのか

最近のテレビで一番嫌なことは、殺人事件や外国のテロ事件など、悲惨な事柄を何度も何度も繰り返し放送することで、知らなければいけないこともあるのかもしれませんが、思わずチャンネルを変えてしまうことが多くなりました。

人間にはいろいろな引き出しがあって、普段は気づかずにいる引き出しも、ある場面を見せられたり聞かされたりすると、その引き出しが開けられて、自分の中の嫌なところが刺激されてしまう。

また、美味しい食べ物や、いい車、楽しい場所等々、人の欲望を刺激するような情報をひっきりなしに見せつけられて、知らないうちにそれらに振り回されてしまう。

そして、スマホの登場によって、これらの情報の氾濫に拍車がかかりました。

もはや私たちは、モノを自分の利便や幸せのために使うことから遠く離れて、モノに振り回される時代にどっぷりとはまり込んでしまっていると言えるのではないかと思います。

映画の黒澤明監督が、「人間は幸せを求めて生きているのに、その幸せからどんどん離れていくようなことばかりしている。」とおっしゃっていました。

私も本当にその通りだと思います。

そこで、たまに海や山へ行ってのんびり、ポカンとした時間を過ごすこともいいと思いますが、できたら一日のうちのほんの五分でも十分でも、公園のベンチに坐って、あるいは部屋の中で、意識的に音や映像から離れ、静寂の中で本来の自分に帰る、オギャーと言って生まれてきた時の自分に帰る、そしてさらに、生まれてくる前の自分に帰るそんな時間を作っていただきたいと思うのです。

テレビ、そしてスマホ