日常の私は、師匠の住職している宮津市の智源寺というお寺の手伝いを、週のうち五日間ほど泊まり込みでしています。私の仕事は、主に檀家さんの法事をお勤めすることと、お墓や位牌のこと、永代供養のご相談、お世話などをしています。
そのような日常の中で、不思議ではありますが、確かにそうだと思うことがあります。
それは一周忌や三回忌、十七回忌などといった法事を勤めさせていただくときに、前回の法事のときのことなどを思い返しながら、ああ、あのときはとても和やかで、かえってこちらが元気をもらえるような法事だった。今日はちょっと疲れ気味なので、あの家の人たちに元気をもらおう、などと思ってしまうことがあります。しかし今までの経験上、このような態度で法事に臨みますと、元気をもらえるどころか、家の人と歯車が噛み合わない、ちぐはぐな法事になってしまいます。
その原因は、施主家の人たちのメンバー構成や、その他諸々の原因も考えられるかもしれませんが、結局のところ、相手に対して何か求める心があるか、ないかということではないかと思い至りました。
私は私の役目として、疲れていようが何であろうが、とにかく精一杯、自分の出来ることをさせていただく、それしかないのだと思い極めてみると、何かしら必ず嬉しいことがあるのであります。求めると得られないのに、そんなものは一切度外視してかかると何かが得られる…不思議というか、そんなふうに世の中が出来ているとしか思えないのであります。
佛教では、これを難しい言葉で「無所得心」と言っているようであります。
ひるがえって見ますと、私たちの日常生活では、何かをしたら何かが得られるという有所得(うしょとく)の行いが幅を利かせています。しかしこればかりやっていると、私が陥ったように、期待外れの結果がついてくることが往々にしてあるように思います。これは、人に物を上げたり、何かして上げたときに、その見返りを求めるとかえってお互いの関係を壊してしまうことなどに現われることがあります。
佛教には「喜捨」(きしゃ)という言葉もありますが、これも同じことを言われているのではないか。自分の行いは喜んで捨ててしまう、良かれと思ってしたことは、さっさと忘れてしまう。
古来から、それが肝心なんだという教えが「喜捨」という言葉になって伝えられているのではないかと思うのです。