夏の余り得意でない私にとって、夏の夕暮れや明け方に鳴くヒグラシの透き通った綺麗な声は、一つの救いです。
まだ夏至を過ぎたばかりでヒグラシにはまだ時期が尚早ですが、今日、夜七時からの坐禅のときに、どういう訳かヒグラシの声を思い出しました。実際に聞こえてきたわけではないので、はっきりと耳に届いてきた声ではないのですが、記憶の中にある声がはっきりと聞こえてきました。そして、早く実際にヒグラシの声を聞きたいという思いがしたのです。
これは暑い夏を待ち望むことになるわけですが、出家してから二十数年間経つ中で、お寺としてはどうしてもシンドイ思いをしなければならない夏の暑い時期を待ち望むなど、一度として思ったことのないことでした。
嫌なことというのは、嫌がれば嫌がるほどどんどん近づいてくるものですが、ヒグラシの声を思ったとき、なんとこれが逆転してしまったわけです。大げさに言ってみれば、今まで夏を嫌がっていたときには「一秒間の波形」がどんどん尖って幅が狭くなっていく一方だったのに、それが緩やかなカーブを描くようにゆったりとしていくような感じになったわけです。
そんなふうに思っていると、ヒグラシの声だけではなく、そのほかにも夏の中のいい物事が思いつくような感じがして、今日、何故かヒグラシの声を思い出したことが、自分的には一つの革命的な出来事となりました。
ヒグラシの声