国会速記者としての待遇は非常に恵まれていたし、私のような、一応何でも出来るがこれといった取り柄も能力もない、器用貧乏な者にとっては、またとない職業であった。
どこで働いているのかと問われた時に「国会で速記をしています。」と答えると、珍しがられるのと同時に自尊心がくすぐられ、また社会的に自分が認められているようにも思えた。
ただ、速記の仕事が一人前に出来るようになるまでにはやはり勉強も努力も必要であると思われたし、実際、振り返ってみると、十年くらい頑張らないと一人前の仕事は出来ないように思う。そういう面では、退職するまでの間に、私は多くの諸先輩方のお世話になって仕事をしていたのだということを、今さらながらに思う。
しかし、「すべての人の幸せ」を追求していた時代の私からは、やはり何か寂しいものがあり、かといってこの世の善悪が未だに分からないままの私にすれば、とにかく「母を悲しませない」生活を送るということが、最低線の責務に思えた。
ただ、自身の目標が定まっていないことや、情緒的にまだ大人になり切れていないこともあって、国会職員として採用された年に結婚をした相手とも、三年ほどの同居生活の末に離婚してしまった。
離婚という結末は、その当時致し方のないものに思われたが、私にとってはやはり大打撃であった。私は、とても大きな失敗をしてしまったことを悔いるとともに、非常な挫折感を抱いたまま、それからの数年間を過ごすことになってしまった。そしてそれとあわせて、公務員という安全で、恵まれた環境の中で、ぬるま湯から抜け出せない、ある意味で無気力な状態に陥っていたように思う。
そんな中で、やはり何か己れを燃やし尽くすことの出来る場所が欲しかった私は、二十八歳の時、オートバイで日本一周の旅に出た。
私は、土日を含めて十七日間の休みを取り、横須賀を出発点に、海岸線を西に向かいながら四国、九州へと渡り、最南端の佐多岬へ、そして今度は北上して再び本州を走破して、青函連絡船に乗り北海道上陸、その後、海岸線をひたすら走って宗谷岬へ。後は、知床から襟裳岬、再び函館から青函連絡船で本州に渡り、東北・リアス式海岸から仙台を経てひたすら南下しながら横須賀へ帰って来るという、総延長七千キロの旅であった。
早朝、夜明けとともに宿を出発して、あとは昼食休憩と、時折、母への土産代わりに写真を撮る以外、暗くなるまでの十数時間、毎日四百キロ余りの距離を走り詰めであったが、とにかく走り通して、無事に我が家へ帰り着くことのみを考えていた。
結局、九州で思いがけず寄り道をすることになったロスが青函連絡船に乗る日まで尾を引いて雨の夜道を深夜まで走らざるを得なくなり、疲労も重なっていたためかなり危険な思いもしたが、それ以外には大きな障害に遭うこともなく、何とか無事に走り遂げることが出来たのは幸運であった。
そうして家にたどり着いた夜、兄に日本一周の感想を聞かれた私は、「自分がいかに小さい人間か、改めて思い知った。」と、小さく答えたのみであった。(続)