その時、私は、四畳半の部屋の真ん中に胡坐をかいて、ある一点を見詰めていた。
その姿はきっと、物凄いエネルギーを発散していたのかもしれない。まるで怒りに震える人が、半径3メートル以内には近づけないような怒気のエネルギーを発しているかのように…。というのも、そんな気配を察して、母が遠巻きに私を見守っていることが私にも伝わってきていたから…。そして母は、こういう時の私には何を言っても無駄なことを十分承知していた。
私はやはり旅に出なければならない、あるいはもうそれしかない、という状況にあったように思う。
十五歳の時、高校一年に上がったばかりの私は、学校まで徒歩で三十分程の道すがら、自分の人生の目標について考えていた。そして、すっきりとした感じで「すべての人の幸せ」を自分の人生の目標にしようと密かに心に決めた。それは、学校の教室に着いてから、小さな紙に書き込んで生徒手帳の片隅にしまい込み、高校時代の三年間、ずっと持ち歩いていた。
そして、高校を卒業し、他のほとんどの同級生が大学進学を目指す中、私は無試験の英語専門学校に進んだ。語学が好きだったこともあるが、何しろ高校三年間は、大学へ進学するためだけのような授業の進め方に何の魅力も感ぜられず、私は放課後のクラブ活動における剣道にのみ生き甲斐を見出して、あとは朝の新聞配達と夜のビル清掃のアルバイトが主な日課であった。そのため、高校では生まれて初めてテストで零点も取ったし、私の成績は入学当初から、担任の先生の言葉を借りれば「低空横ばい」であった。
であるから、高校三年の時には今さら大学を受験しようとしても全くの手遅れで、唯一勉強したことと言えば、英単語の語源について書かれた単行本を手垢で真っ黒になるほど熱心に勉強し、丸々暗記したくらいのことだった。
結局、それが英語の専門学校に行くことになった大きな理由の一つだろうと思う。
私は、東京荒川区に三畳一間で家賃五千円、机を置けばあとは一畳ほどのスペースに布団を敷くのがやっとというアパートを借りて、昼間は、授業料ばかりうるさく催促するくせに休講ばかりする専門学校に文句を言いつつ通いながら、夜は「人生論」や「幸福論」といった類の本を手当たり次第に読み漁った。
私は、小さな紙片をしまい込んだ生徒手帳を後生大事に持ち歩きながら、「すべての人の幸せ」にたどり着くためには、その時の私にとってまさに混沌としたこの世の中の善悪を見極めることが、何よりも必要なことであると思われたのだ。
しかし、今にしてみれば全く浅はかだった私は、「この世の中の善悪は、人間の頭では分からない」という結論に達してしまって、結局身動きが取れなくなってしまった。ある人にとっての善が隣人にとっては悪であり、ある時には善であったものが次の瞬間には悪になってしまう。また、人間にとっては善であっても、植物や動物、自然界では悪となることもあり、それが宇宙のレベルになったらどうなるのか…。
当時、十九歳であった私は、自ら至ったこの「十九歳の結論」なるものに追い詰められ、深い失望とそれによる無力感とに暗く重くとらわれてしまった。
…結局、専門学校もやめてしまい、横須賀の実家に起居していた私は、なす術もなく、ある日、徒歩での旅を思いついたのだった。
特に行き先があるわけでも、ましてや目的のある旅でもなく、ただひたすらに歩いてみようと思っただけのことだったが、この旅は、再び家に戻ることになるのかどうか分からぬ、私にとってある意味では生き死にの懸かった旅にも思えた。
春まだ浅い、ある日の午前零時、私は数枚の下着と僅かな日用品をリュックに詰め、どこでも寝られるようにと寝袋を携えて、母の気配を背中に感じながら、静かに家を出て西に向かった。
初日は、夜中に家を出たこともあって、その日の夕刻までに国道一号線を箱根に差しかかるまで、とうとう五十数キロ歩いた。そして、その翌日も、またその翌日も、道に迷わぬよう、主に国道をひたすら歩き続けた。そのようにして、横須賀の実家を出てから十日間ほどした頃、地名も定かに思い出せないが、雨がシトシトと降る夜の国道を私は歩いていた。
そこは道が新幹線と交差しているために陸橋になっていて、欄干から下を見下ろすと、重量感のある新幹線十数両もの編成が時速二百キロにもなるだろうスピードで、けたたましい地響きを伴いながら通り過ぎて行った。
雨に濡れた電線とパンタグラフが高速で接触して、火花とともにバチバチッという電撃音がいつもにも増してひと際大きく聞こえてくる。
それは、時間にしてみればほんの数秒間の出来事ではあるが、その衝撃的な振動や音声は陸橋の上にいる私にさえも恐怖感を与え、またその反面、その光景はやけに美しく私には感ぜられた。
…と、その時私は、高速の新幹線が巻き起こす、引き込むような強烈な風の勢いにそのまま吸い込まれるようにして、陸橋から身を投げてしまいたい衝動を覚えた。生きる目的を失っていた私にすれば、ここで死んでしまうことも、生きながらえることも、どちらでもいいようなことに思えた。その時の私がどれほど切羽詰まっていたのか、今となっては正確には思い出せない。ただ、腑抜けのような状態に陥っていたことが身の内の記憶として残ってはいる。
だが、その時突然、母の姿が脳裏に浮かんだ。
そして、若くして夫を失った母が、姉や兄そして私を、懸命に育ててきてくれたこと、その苦労や、私たち子供を連れて心中しようと思い詰めた過去など、様々な場面を一瞬にして深く思い出した。
…途端に、腑抜けの私から、自分の理屈が飛んで行ってしまった。ただ、母に悲しい思いをさせることのないよう生きて行こうと、それだけになってしまった。
私は、それから数日、なお惰性のようにして伊勢まで歩き続けたが、結局、地図にして四百三十二キロばかりを歩いて、新幹線に乗って実家に帰った。
…母が静かに待っていた。(続)