ごあいさつ
妙性寺住職 臼井 樸堂(文雄)
昭和30年7月、父母の赤白(しゃくびゃく)の二滴によって身体髪膚をこの世に受けた私は、その8カ月後に父が他界を致しましたものの、母や姉兄、叔父を初め親類縁者、近隣の人々、小学校、中学校そして高等学校においてお世話になった先生方、数多くの先輩、同輩、後輩、学生時代にアルバイト先でお世話になった方々、社会人としての日々の中で出会った数え切れぬ方々、出家の因縁へと導いて下さった方々、出家得度の師匠を初め、法幢の師匠、ご指導ご鞭撻賜った多くのご寺院様方等々、限りない場面において枚挙に暇がないほどの数多くの方々のお世話になって、今の私が存在しています。
平成16年9月には、師匠を初め、妙性寺兼務寺院様、また法縁のご寺院様方、当時の妙性寺総代様方等々のお世話を戴きまして、妙性寺住職として入寺させて頂きました。以来10数年が経過いたしまして、何程の事が出来るわけではありませんが、このホームページを開設することによりまして、僅かばかりのご恩返しをさせて頂ければと念願しております。
妙性寺とは
小野山妙性寺(おのさん・みょうしょうじ)は、平安六歌仙の一人として名高い小野小町を開基とするお寺です。
その昔、小野小町が妙性寺所在の五十河(いかが)の地で儚くも命を落としたと伝えられ、この五十河の地に辞世の句を遺すなど、その他にも幾つかの伝承が残されています。妙性寺には小野小町坐像や位牌などが伝えられていて、「小野妙性大姉」という小町の戒名がそのままお寺の山号(小野)・寺号(妙性)になっています。
※「小野小町との縁」もあわせてご覧ください。
山号 | 小野山(おのさん) |
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寺名 | 妙性寺(みょうしょうじ) |
宗派 | 曹洞宗 |
所在地 | 〒629-2512 京都府京丹後市大宮町五十河1182 |
妙性寺の歴史
妙性寺は、内山地区(昭和48年廃村、現在はブナ林で有名)にあったと伝えられる真言宗・妙法寺【火災で焼失した後、享保19年(1734年)に観音堂を建立。しかしそれも廃絶】が五十河の地に庵を建てたのが始まりであると伝えられています。また、天和2年(1682年)の「丹後國寺社帳」に「曹洞宗 五十河村 妙性寺」とあり、この時期には妙性寺が存在していたものと思われます。
御開山は毛山國文大和尚(宮津市・智源寺第十五世)で、三世・雲騰眠龍大和尚が本堂を建立されましたが火災で焼失、その後、文政6年(1823年)、五世・霊峯徹源大和尚により再建されました。現在、妙性寺の御本尊様は釈迦牟尼佛ですが、内山・観音堂の本尊様と伝えられる十一面観音像もあわせてお祀りされています。
境内
住職履歴
氏名 | 臼井 樸堂(文雄) |
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生年月日 | 昭和30年7月13日 |
修学 | 昭和43年3月 神奈川県横須賀市立豊島(としま)小学校卒業 昭和46年3月 神奈川県横須賀市立不入斗(いりやまず)中学校卒業 昭和49年3月 神奈川県立横須賀高等学校卒業 昭和53年9月 衆議院速記者養成所卒業 平成16年3月 駒沢大学佛教学部禅学科卒業 |
出家得度 | 平成6年1月 兵庫県・永源寺住職 髙橋信善師匠に就いて得度 |
安居 | 平成6年3月より平成8年3月まで大本山永平寺本山僧堂に安居(修行) |
立身 | 平成8年11月 兵庫県・豊楽寺住職 藤井月光師匠に就いて立身 |
伝法 | 平成9年3月 兵庫県・永源寺住職 髙橋信善師匠の室に入り伝法 |
住職 | 平成16年9月 京都府京丹後市大宮町五十河・妙性寺に住職 |
宗門歴 | 平成15年 京都府宮津市・智源寺専門僧堂 副監事兼講師に就任 平成20年 京都府宮津市・智源寺専門僧堂 監事に就任 |
社会歴 | 昭和53年10月1日~平成2年3月31日 衆議院記録部に勤務 |