樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

お経の功徳

山梨県でお世話になったお寺は、麓の村から30分ほど山道を登ったところにありました。

山道には灯など1つもありませんでしたので、夕方から出かけるような時には懐中電灯を持って出るようにしていたのですが、昼のうちに出かけても思わぬ用事で日が暮れてしまうと、真っ暗闇の山道を歩いて帰らなければなりませんでした。

電気のないお寺の生活で暗闇には慣れていたのですが、それでも生身の人間ですから、ときには獣の気配を感じたりして恐ろしくなったりします。

そんな時、最初の頃はありとあらゆる歌を歌ってみました。とにかく思い出せる限り、知っている限りの歌の中で、元気が出そうな歌を思い切り歌ってみました。周りには人などいませんから、恥ずかしいことはありません。

ところが、どんな歌を引っ張り出してきて歌ってみても恐怖心は消えず、次々とあらぬ妄想が頭に浮かんできて、怖くてたまらなくなっていきます。

そこで、ついに思いついたのが覚えたての般若心経でした。たどたどしい般若心経だったと思いますが、不思議なことに恐怖心が消えました。

今思えば、般若心経の中に「心に罣疑(けいげ・さしさわり)無きが故に恐怖も無い」という文言がありますが、この時の私は訳も分からずにただ唱えていただけです。

それなのに何故恐怖心が消えたのか…。

普段私たちが耳にしたり口にする歌は、人生の機微などの情に訴えたり、恋する心を歌ったり、いわゆる六根(ろっこん・眼耳鼻舌身意)に発するものですから、少なからず人間の欲得というものが入り込んでくる。

それに対して般若心経などのお経は、苦しみの世界に住んでいる私たちを救うために、佛さま方が大きな慈悲の心から後世に残して下さったものであります。

私たちが抱えている様々な欲望から解き放たれた言葉には、それ自体に功徳があるのではないかと思われるのです。

お経の功徳