樸堂コトノハ

− 等身大の佛教 −

祈り

ここ数日の間、私の心の片隅にいつもあって、ずっと気になっていることがありました。

それは、もう数年前に読んだ、スイスの心理学者・ユングの著した「ユング自伝」の中のアメリカ、プエブロ・インディアンについて書かれた一節です。

彼らは、アメリカ大陸の屋根ともいえるニュー・メキシコの高い山地に住んでいて、太陽を神と崇め、ある秘密の儀式を行っているというのです。

あるプエブロの村長がユングに向かって語りかけます。

「われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは父なる太陽の息子たち。そしてわれわれの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らなくなるだろう」と。

現代のような科学の時代に、人間が太陽の運行の手伝いをするなどということは全くナンセンスかもしれません。しかし私はここに、「祈り」というものの本質があるような気がするのです。

はるか遠いニュー・メキシコの地で、見知らぬプエブロ・インディアンの人々が、自分たちのためだけでなく、全世界の人々のために、生命の源である太陽の運行を手伝っている。

これはつまり、私の命について、地球上のどこかで見知らぬ人が見守ってくれているということ

お釈迦さまの弟子である私たちも、実は毎日、地球上の生きとし生けるものが安寧であることを祈っています。

この「祈り」は、科学的にどういう効果があるものなのか、それは分かりません。しかし私は、それでいいと思えるのです。

祈り