あてどない旅から帰った私は、その数日後、小高い山の中腹にある福島先生のお宅に向かっていた。
福島先生は高校時代に大変お世話になった剣道の先生で、その頃すでに六十歳を越えていらした先生は、背も高く、恰幅の良い堂々たる体躯の持ち主で、若い頃かなりの剣道修業を積まれたらしく、元気旺盛な高校生を相手に一歩も引かぬ稽古をつけて下さった。
先生の稽古の中心は「掛かり稽古」と呼ばれるもので、まず初めに全身全霊を込めての正面打ち、すぐ続けて連続左右面打ち(切り返し)、そして本題の掛かり稽古に入っていく。あらん限りの気魄と気合をかけながら大きく、強く踏み込んで面を打っていくが、どれほど気魄を込めて打ち込んでいっても先生の面にはかすりもしない。こちらの面打ちは全てはね返され、はね返されて、なす術もなく疲れ切っていく。
面金(めんがね)の向こうに見える先生の顔はまさに鬼のようで、今にして思えば不動明王の化身のようであった。疲れた体を奮い立たせ、奮い立たせて、なおも面に打ち込んでいくと、いなされ、いなされながらも、ようやく一本の面が当たる。
「よし。」面金の中の先生が小さく頷く。
この稽古の眼目は、疲れ果て、疲れ果てて、いよいよ体から余分な力がすっかり抜け落ちた時、体の芯から絞り出したような気力で打つ面を引き出すことにあり、このような稽古を積み重ねることによって、日常の稽古においても無駄な力を使わずに面打ちが出来るようになっていく。
しかしこの稽古は、掛かっていく者にとっては体力のぎりぎりまで追い詰められていくものであるから、命懸けでぶつかっていく気概が必要でもあり、また受ける方に大きな慈悲心がないと、そこまで過酷に相手を追い詰めることが出来ず、最後の素晴らしい面を引き出すことが出来ない。
これは、時間にすればたった三分か四分くらいのことではあるが、一週間に一度、金曜日のこの稽古を乗り切ることは、私の高校生活の中において非常に大きなウエートを占めていた。
二人の女子マネージャーは、いつも心なしか体を固くして、片手にストップウォッチを握り締め、時折声援を送りながら私たちを見守ってくれていた。そして、先生との稽古が終わってからその稽古時間を尋ねると、赤く腫らした目で部員それぞれの時間を教えてくれた。彼女たちも私たちと心を一つにしながら、先生と闘っていてくれたのだろう。
高校生当時の私にとって福島先生はまさに雲の上の人であったが、これより数年後、先生の古希を祝う祝賀会で頂戴した『私の体験した不動明王の霊験』という著作を今日ひも解いてみると、稽古が終わった後の先生のお話が何故あれ程印象深く私たちを惹きつけたのか、今さらながらその理由がはっきりと分かる気がする。
終戦によって全てをなくされた先生が、すっかり落胆して人生の方針を失い、「人間福島の成就と人類社会への貢献との祈願をこめ」不動明王信仰の道に入られたことにより、その五体から私たちを圧倒するような、大きな慈悲のオーラが私たちを包み込んでいたのではないだろうかと思えるのである。
高校卒業後、一年程の時を経て、ついに、にっちもさっちも行かなくなった私は、その哀れな体を引っ提げて、何がしかの答えを求め、恥も外聞もなく先生のお宅に向かっていたのだった。私は、この世の善悪が分からなくなってしまったその経緯や顛末を、詩の形で表わし自ら編集した小冊子『十九歳の結論』なるものを携えていた。私にとってこの小冊子は、その内容はどうであれ、これまでの私の生きざまが凝縮されたものであり、まさに私の命が詰まっていた。
私は、父親が早くに他界していたこともあったが、己れの人生の一大事に当たって、これを正面からまともに受け止めて下さるのは福島先生以外には考えられなかった。
先生は、私の小冊子にじっと目を通されると、「君は物書きになるのか。」と言われ、懸命に綴った文章を褒められたように感じた私は、気恥ずかしい思いとともに、正直嬉しかった。
先生は続けて、「このままでは危ないから、とにかく何か体を動かして仕事をしなさい。」と私に諭された。私は、福島先生が私のありのまま全てを受けとめて下さったことを直に感じて、有り難い気持ちでいっぱいであった。
この時のことは、この他にどのようなお話をさせて頂いたのか、残念ながら殆んど記憶に残っていない。ただ、先生が帰り際に、「臼井君、ゼロは一よりも大きいんだよ。分かるか。」と言われたことが、その温かく柔和な笑顔とともに、四十年を経た今となってもはっきりと脳裏に焼きついている。
この問いは、当時二十歳ばかりの私には何のことだかさっぱり理解出来ず、ただ、その言葉を大切に懐におさめて帰ったのみであった。
そして、福島先生のこの壮大な問いかけは、結局私が出家する直前まで、深い霧の中に埋もれたままであった…。(続)