平安六歌仙・小野小町との縁(えにし)
平安前期の歌人・小野小町と妙性寺の縁は、妙性寺所蔵の「妙性寺縁起」(田﨑家の朴淳軒翁が語っていたものを、その息子・了然居士と妙性寺三世・雲騰眠龍大和尚が文化~天保年間[19世紀前半]に記したもの)にその当時の伝承が窺えます。
参考文献によりますと、概略として下記のような伝承があるようです。
「小町は都から天橋立への旅に出たが、途中、福知山にて五十日(いかが)村の上田甚兵衛と旅の道連れとなる。
しかし、旅の疲れから甚兵衛の家に厄介になり、そこで甚兵衛から、この村には火災が多いがどうすればよいかと尋ねられた小町は、五十日(いかが)の「日」は 「火」に通ずるので「河」に改めるよう進言する。そこで、村の名を「五十河」と改めたところ村は火災から救われ、また小町によって難産もなくなった。
そして、旅の疲れも癒やされた小町は再び橋立へと向かうが、途中で猛烈な腹痛に襲われ、甚兵衛に背負われて長尾坂(小野負坂)を越え五十河村に帰った。しかし小町は、
「九重の 花の都に住みわせで はかなや我は 三重にかくるゝ」
との辞世の句を遺し、霊薬の効き目もなくそこで亡くなった。
小町は甚兵衛によって手厚く葬られ、内山・妙法寺住職から「小野妙性大姉」の戒名を授かり、それを刻んだ墓石が建立された(現在の小野塚)。
妙法寺住職は、五十河の地に寺を建立し、小町の戒名から、山号を「小野山(おのさん)」、寺号を「妙性寺」として、小町開基の寺とした」
このように、小野小町と妙性寺・五十河の地は関係が深いとされ、それぞれに伝承が残っています。
妙性寺に伝わる小野小町伝承
「妙性寺縁起」
縦約27センチ、横約564.5センチを測る長大な巻物。田﨑家の朴淳軒翁が小野小町について語っていたものを、息子の了然居士と妙性寺三世雲騰眠龍大和尚が、文化~天保年間(19世紀前半)に記したもの。
「位牌」
木製で、高さ63センチ、基底部幅18.4センチを測る。表面に「當寺開基見得院殿小野妙性大姉」という戒名を刻む。当初、内山・妙法寺住職から小野小町に授けられた戒名は「小野妙性大姉」であったが、裏面に「正徳二年壬辰初冬日」とあることから、正徳二年(1712年)以前に院殿号が追崇されたものと見られる。
「小野小町坐像」
高さ35センチ、幅22センチを測る厨子の中に、像高約15センチ、幅 約12センチを測る木像彩色の尼姿の坐像が収められている。左手を上に持ち上げ、群青色に彩色された巻物を手にする。右手は膝の上に置かれ、もとは持ち物があったようであるが、現在は失われている。法衣は截金文様で装飾する。また、厨子は外面が黒漆塗りで、内面に金箔を貼る。
五十河村に伝わる小野小町伝承
「小野小町墓」(小町塚)
字五十河小字波迫(五十河村入口、「歌仙」脇)に所在。
石碑は二基ある。どちらも花崗岩製で、一つは高さ152センチ、幅48センチを測る。表面には、長さ120センチ、最大幅38センチの範囲を一段彫り窪めたところがあり、そこに「小野妙性大姉」の戒名を刻む。向かって右側には楔を打ち込んで割った痕跡が7か所残っている。
もう一つの石碑 は、高さ95センチ、幅70センチを測る。表面に長さ68センチ、最大幅13センチの範囲を一段彫り窪めたところがあり、そこに文字を刻んだものと思われるが、現在は判読できない。しかし、その左下に「上田甚兵衛」という文字が残る。また、これら2基の石塔とともに、宝篋印塔の台石と空輪が置かれている。
「大宮町誌」によれば、「小野妙性大姉」の石碑は妙性寺前庭の「正徳三年」銘のある萬霊塔と同じ石を使ったとされ、小町墓はこの時期に作られたものと推測される。なお、昭和55年(1980年)に整地がされ、現在のような墓地になった。
「薬師堂」
小町墓に隣接する小堂。小野小町の守護佛薬師如来像を祀る。薬師如来像は木像一木造りで、像高88センチ、台座幅15センチを測る。頭部には螺髪を表現しているほか、彩色も若干残っている。なお、現在の堂宇は昭和48年(1972年)に再建されたものである。
「小野坂(小野負坂)」
新宮地区に位置する。小町が再び天橋立や文殊堂、成相寺などに参詣する途次、腹痛に襲われ、上田甚兵衛に背負われて長尾坂を越えて五十河村に戻った。それから、長尾坂を小野坂(小野負坂)と呼ぶようになったと伝えられる。現在も小字名で「小野坂」や「長尾」が残っており、かつては縦貫林道を経由して成相寺へ行くことが出来た。
「岡の宮」(岡宮大明神石碑)
字五十河小字江ヶ谷224番地に所在する(小町墓から南側へ500メートル離れた丘陵の中腹にあたる)。小町の没後、都から訪れ亡くなったという深草少将の墓と伝えられ、寺の鎮守とされた。丘陵斜面を長辺約 7.5メートル、短辺約4メートルの範囲で平坦に造成しており、平坦面のやや南寄りに高さ1.12メートル、幅0.65メートル、厚さ0.29メートルを 測る花崗岩の自然石の石碑が西側に面して立っている。石碑の表面には、概ね一辺14センチ~17センチを測る文字で「岡宮大明神」と刻む。現在は、石碑に 瓦葺の覆屋をかけて祀ってある。
「蓬莱鏡」(上田家所蔵)
上田甚兵衛の子孫宅に小町所持品として伝えられたもの。鏡は白銅の蓬莱鏡であり、直径12.3センチ、厚さ1.5ミリ~2ミリを測る円鏡である。縁の高さは1.4センチ、厚さ3~4ミリを測り、直角式高縁の形状をとる。鏡面はわずかに凸状になっている。
文様面は二重界圏によって内区と外区に分けられるが、文様自体は両方にまたがって表現されている。上半部には松を、中央上には菊花を2つ表わす。左側には砂目地で州浜を表現しており、2羽の鶴が嘴を合わせている様子が描かれている。右下には小鶴と思われるものが3羽表現されている。鈕座の部分は3ミリほどの高さで亀がかたどられ、紐を通す孔が見られる。また、紐の右下には小判上の区画に「天下一」銘を入れている。
「椀」(上田家所蔵)
鏡とともに上田甚兵衛の子孫宅に小町所持品として伝えられたもの。
椀は、植物の実を半切し、内面を刳り抜いて赤漆を塗ったものである。外面には生漆(すきうるし)を塗り、透明感を持った仕上がりとなっている。
法量は、長辺11.4センチ、短辺10.4センチ、高さ5.4センチを測る。口縁端部の一端に幅9ミリ、深さ3ミリの切り込みが入っており、その反対側の口縁部には径1.6センチを測る金具が取り付けられている。金具は、紐状のものを通して吊り下げられる構造になっている。
参考文献
「全国小野小町伝承地資料集」 大宮町・大宮町教育委員会発行
「京丹後市の伝承・方言」 京丹後市発行